【ジョブズ、孫正義の成功の裏にはロケット・ササキ】佐々木正の生涯 
「ロケット・ササキ」と聞いてピンとくる人はどれくらいいるでしょうか?
SHARPの副社長を勤めた佐々木正の異名で、2018年に102歳で亡くなるまで、伝説のエンジニアとして多くの人々に影響を与えた偉人です。
「ロケット・ササキ」の異名はアメリカのエンジニアが、『戦闘機のスピードでは佐々木の開発に追いつかない、彼はロケットだ』と言ったことが起源だと言われています。
当時IT化の波に乗っていたアメリカの技術者がそう言うのですから、佐々木のエンジニアとしての資質がこの言葉に現れているように思います。
佐々木の生涯の功績はざっとこんな感じで、
  • 世界で初めてIC(集積回路)を使った電卓の開発
  • 電話機の作成・普及
  • 太陽電池や液晶・半導体の技術発展に大きく貢献
  • アポロの月面着陸の影の立役者
  • 名もなき時代の孫正義への投資
  • スティーブ・ジョブズへの助言でiPodができた
  • サムスンの発展に寄与
  • 任天堂山内溥とファミコン・ゲームボーイのリリース

 

 

まだまだ色々な功績があるのですが、本当に1人の人間がここまで世界を変えられるのかと驚嘆します。

 

現代のインターネット社会の基礎を創ったと言っても過言ではありません。

 

102歳で亡くなるまで情熱を持ち続けた彼の人生を振り返ってみます。

 

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幼くして国際性を持っていた

1915年島根県に生まれ、小学生の頃から台湾に移り住みます。(当時は日本統治下)

 

台湾に住んでいたことから、日本語・福建語・英語を中学生ながらにマスター、高校生になるとドイツ語までマスターし幼くして才能を発揮します。

 

 

高校生の頃には植物の品種改良も独自で勉強し、リンゴとマンゴーの接木に成功し、リンゴマンゴーという品種を作ります。

 

 

リンゴは北半球を代表する果物、マンゴーは南半球を代表する果物で、異質なものも工夫して組み合わせれば素晴らしい変化を起こせると気付きます。

 

 

この経験から共創という概念を生涯大事にします。

 

佐々木が死ぬまで大事にしていた共創の概念は、スティーブ・ジョブズや孫正義にも受け継がれます。

 

 

マイクロソフトのビルゲイツが大嫌いだったジョブズが、1997年に出資を受け共同開発をするとき、孫正義とライバル関係にあった西和彦(マイクロソフト副社長)を仲介したのも佐々木でした。

 

 

佐々木は日本以外で生活したことから、こういった共創の価値観を持っていました。

 

 

晩年には『独占に一利なし』と語っていて、『技術者は利益優先ではなく、人類を豊かにするために働いている』と言い、サムスン電気に技術提供もしていました。

 

 

日本からは国賊扱いされるのですが、そういった発想は発展を阻害するだけと考えており、昔からオープンイノベーション的な考えを持っていたエンジニアでした。

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18歳で京都大学へ進学

18歳で父の勧めもあり、京都大学に進学します。

台湾で長く過ごしたため、日本の文化に触れる機会が少なかった佐々木は、京都の街並みや人の良さに感銘を受けます。

 

 

大学時代にはドイツへ留学したり、逓信省(かつて日本に存在した郵便や通信を管轄する国の機関)からお呼びがかかり、電話機の開発に携わります。(大学生の時に電話機を開発するなんて凄すぎます)

 

 

既に、通信技術においては日本のトップレベルの技術を身に付けていました。

その時に開発した電話機は終戦まで日本全国で使われるものとなります。

戦争体験

大学を卒業すると、軍の命令により川西機械製作所で働くことになります。

そこで真空管の設計・作成などを手がけますが、戦争が激しくなり物資の不足などから仕事がなくなります。

 

 

そこで全く畑違いの、機織り物の販売を任されることになります。

ここでも佐々木は『どうせなら人がやらないところで売ってやる』と、インドまで売りに行きます。

 

 

英語圏だったことと、インド人がサリーを身にまとうことから、この地で売れるだろうという目論見でした。

しかし読みはハズれ全く売れず、タダでは転ばない佐々木はそのままアフリカまで足を運び機織り物の販売をします。

 

 

『アフリカのほとんどの人は裸で生活をしている、ここでは売れるはずだ』この読みは当たり、アフリカでは機織り物が受け入れられ、バカ売れします。

 

 

その時も一工夫して、『裸よりも、この機織り物を身に付けた方が涼しいんだぜ』といって売り込みます。

後にアフリカ大陸では商売を学んだと振り返っています。

第二次大戦でドイツへ

第二次世界大戦に入ると、佐々木は対空レーダーの技術の習得のためにドイツへ派遣されます。

ドイツへはシベリア鉄道を使って入り、帰る頃には戦況が悪化し潜水艦を使って日本へ戻ることになります。

 

何度も死に目にあい、実際に一緒に派遣された同僚を亡くしています。

 

『自分だけ生き残ってしまった』という思いにかられながら帰国し、川西機械製作所で働きますが、そこでも多くの同僚が空爆の犠牲になるのでした。

 

奇跡的に川西機械製作所の工場は戦火を免れ、損害はありませんでした。

殺人電波の研究

いよいよ戦局が厳しくなってきた日本は、佐々木ら技術者に殺人電波の研究をさせます。

 

マグネトロンという電波を使って人を攻撃するというもので、秘密裏に研究が進められていました。

 

 

研究者として技術を殺人に使うことに抵抗があったものの、亡くなった多くの同僚や『やらなければ、やられる』という想いに駆られ研究を続けます。

 

 

いよいよ捕虜を使った人体実験を行うことが決まりましたが、その矢先日本の敗戦が確定し、人体実験は行われずに済みます。

 

 

この時を振り返り、

 

科学者として死なずに済んだ、これからは人を幸せにする道具を作ると決意した。

 

と振り返っています。

 

研究資料や機材は湖の底に沈め川西機械製作所に戻るのでした。

戦後

戦後、佐々木はGHQに呼び出されます。

佐々木は『殺人兵器の開発がバレた』と思い死を覚悟してGHQの本部に連行されます。

 

 

そこでGHQの幹部は、『君が開発した電話は音声がひどい、今すぐアメリカで勉強してこい』と言われ佐々木は面食らいます。

 

大学生の時に開発した電話はアメリカの電話に比べ質が悪く、GHQがコミュニケーションを取ることに苦労をしていたのです。

 

GHQの幹部は続けて『君の工場が奇跡的に生き残ったとでも思うのか?アメリカは戦後日本を支配するために君の工場には爆弾を敢えて落とさなかったんだ。』

 

 

と衝撃の事実を知らされます。

 

悔しくて堪らなかった佐々木ですが、これから人の役に立てる開発ができることに少しの希望を持っていました。

渡米

1947年アメリカに渡ると、後にトランジスタの発明でノーベル賞を受賞するビル・ショックレー氏らに教えを乞い勉強に明け暮れます。

 

帰国後トランジスタの研究を江崎玲於奈(後にソニーに移籍しノーベル賞を取る)らとともに行います。

しかし、川西機械製作所ではトランジスタに懐疑的な意見が多く冷遇されます。

 

 

江崎玲於奈はSONY創業者の井深大に引き抜かれてしまいます。(SONYはトランジスタの可能性を理解していました)

 

 

同時期、川西機械製作所は財閥解体により解散し、神戸工業としてスタートを切りますが優秀な人材の流出を避けられませんでした。

 

 

佐々木は右腕の研究者を失いながらも『江崎は神戸工業で埋もれてはいけない、羽ばたく人材だ』と語っています。

殺人電波との再会

佐々木が渡米していたときに、殺人電波マグネトロンの研究者に会います。

 

戦争中に佐々木が開発していた殺人電波のマグネトロンですが、それを転用して冷めた食事やミルクを温める調理器具を作ろうとしていました。

 

 

今では当たり前の電子レンジです。

 

 

佐々木は、戦時中人を殺めるために研究していたマグネトロンが、人の暮らしを豊かにする技術へ転用されていることに感動します。

 

 

これこそ技術者の使命と感じ、神戸工業に持ち帰り研究を始めます。

 

1962年このマグネトロンの技術を使い、早川電気(後のSHARP)と日本初の電子レンジを作ります。

 

この時佐々木は47歳でした。

退職と学者を目指す生活

川西機械製作所が財閥解体の影響で解体され、神戸工業となり佐々木は48歳になっていました。

 

ここらでビジネスとは縁を切り、亡き父の願いでもあった学者になると神戸工業(川西製作所)を退職することを決意します。

 

京都大学で教鞭を執ることも決まり、神戸工業で残務処理をしていた頃、早川工業(SHARP)の重役が佐々木をスカウトしにやってきます。

 

 

しかし、

 

  1. 京都大学で働くことが決まっていたこと
  2. 同時の早川電気は、松下電器、東芝、富士通、日立との苛烈な争いで企業に力がなかった

 

以上の理由から断ります。

 

『今更、沈みゆく会社で働こうとは思わない』と語っていました。

 

 

それでも早川電気はしつこく佐々木を勧誘します。

神戸工業の残務処理でアメリカに行った時にも、アメリカまで早川電気はついてくるのです。

 

 

とうとう根負けするような形で、早川電気の創業者で社長の早川徳次と面会します。

 

面会中、その人柄に魅せられ佐々木は自ら頭を下げて『働かせてください』と口にするほどでした。

(早川徳次はSHARPの創業者。シャーペンの開発、ベルトに穴を開けずに使えるバックルの開発、ラジオの開発などを成し遂げた人物)

早川電気(SHARP)入社

1964年、49歳で早川電気に入社します。

 

苛烈な競争で早川電気には力がなく、本社の電気すらコストカットのためつけることができない程でした。

 

そこで課されたミッションは、

 

  • 無から有を生み出すこと
  • 早川電気の利益の1/3を佐々木が生み出す

 

とシンプルなものでした。

 

ありとあらゆる発明や開発をしましたが、ことごとく失敗に終わり、唯一事業になりそうなのが電卓でした。

電卓戦争

当時の電卓は、机を全て占領するほどの大きさでとても巨大、しかも価格がトヨタの車より高いものでした。

 

1964年に早川電気がリリースした電卓は、重さ25kg、値段は53万円でした。

 

そこでより小さく、より安くするために開発を続けます。

 

開発途中、早川電気の社員がありとあらゆる壁にぶつかります。

 

その都度佐々木は、『そのことなら、〇〇さんに聞いてみなさい』『□□の件なら、アメリカの△△さんを紹介するよ』など、すでに佐々木の顔は世界中に知れ渡っており、社内の問題は瞬く間に解決していくのでした。

 

 

当時の日本では、カシオやキヤノンも電卓を作っていて、『より安く・より手軽に』を目指して競争が激化していました。

 

 

そこで佐々木はMOSと呼ばれる半導体に目をつけ、電卓の小型化に挑みます。

↓MOSのイメージ

半導体MOS

 

しかし、MOSの量産に対して、国内メーカーは懐疑的でした。(今では当たり前の半導体ですが、佐々木の考えは当時の人の10年先をいっていたので、それを理解できる人がいなかったと言われています)

 

 

日立、東芝、日本電気、三菱電機、結果的にどのメーカーも量産を断り、佐々木はアメリカへ行きます。

 

アメリカでも色々な企業に量産を断られ、最後の希望でロックウェルと商談をします。(ロックウェルは今も存続するアメリカのIT巨大企業)

 

 

しかし、佐々木の求めるクオリティーの品物を作る自信がないと言われ断られてしまいます。

 

佐々木の電卓のプロジェクトが頓挫することが決まり、職を辞する覚悟でアメリカから日本へ戻ります。

 

 

ロサンゼルスの空港で失意のどん底の中、一本のアナウンスが入ります。

 

それは佐々木の名を呼ぶ、ロックウェルの人間からのアナウンスでした。

 

空港内に『ミスターササキ』の名前がアナウンスされフロントに行きます。

 

 

ロックウェル社は『I change my mind』と言って、一夜考えたあと佐々木の申し出を受けMOSを作ることを約束します。

 

その後ロックウェルと共同開発が始まり、電卓の小型化に成功し、アポロ計画にまで参画することになります。

アポロ計画

当時のコンピュータは非常に大きく重く、処理できるデータも限定的でした。

ソ連と宇宙競争に必死だったアメリカは、コンピュータの小型化、処理能力の向上に必死でした。

 

その時に使っていたのがMOSの技術でした。

 

宇宙船の中に入れるコンピュータは、容積を増やさずに、処理能力を上げることが必須とされていて、その時の開発のリーダーが佐々木でした。

 

ロックウェルとの共同開発で、見事コンピュータの小型化に成功し、後にNASAからアポロ功労賞を受賞します。

『ロケット・ササキ』はこの時にアメリカ人がつけたあだ名です。

日本企業との確執

電卓市場は1人1台所有するにまで成長するようになります。

 

この頃に佐々木は日本の半導体メーカーから国賊扱いをされるようになります。

アメリカのロックウェルからしか半導体を買わない佐々木を責め始めたのです。

 

『日本の半導体メーカーに発注をしない佐々木は、国益を考えない人間だ』と非難を浴びますが、

 

こちらが量産をお願いした時に、見向きもしなかったのは貴方達だ』と一蹴します。

 

国際感覚を持ち合わせた佐々木には、このような日本独特な考え方には理解ができなかったようです。

 

 

また、1970年の大阪万博に出展するときも揉めています。

 

佐々木は出展費用が15億円する大阪万博に懐疑的で、『たった半年で更地になる万博に15億円出すより、SHARPの将来のために15億円を使った方がマシだ』

 

と言って、奈良県の天理市に半導体工場を作ることにします。

液晶事業に参入

SHARPの液晶事業の担当だった和田は、液晶のことでアドバイスをもらいに佐々木の部屋を尋ねました。

佐々木の部屋にいくと、長蛇の列ができていて佐々木にアドバイスを求める列ができていました。

 

 

当時の佐々木はSHARP社員全員の相談を受け、分刻みのスケジュールをこなし、おまけに一度会った社員全員の名前を覚え、的確にアドバイスをしていました。

 

 

佐々木の驚くべきスキルは、人の名前を覚えること、そしてその人脈の広さです。

 

『困ったら〇〇さんに聞けばいい』といつも的確なアドバイスをしてくれるのです。

 

 

その裏には人を大事にする精神があり、年間5000通以上のクリスマスカードや贈り物を行い、その全てに手書きのメッセージを添えていました。

 

 

そういった人並外れた地道な行動が、佐々木の人脈を作っているのでした。

 

 

そして和田が液晶の相談をすると、その場でアメリカのRCAという巨大企業の役員に電話をして、1週間後にRCAのアメリカ本社に足を運び、和田の相談した技術を持って帰ってくるのです。

 

 

フットワークの軽さと、行動の速さに驚嘆します。

 

そしてこの佐々木の行動から、SHARPは液晶事業で成功するのです。

電卓戦争の終止符

電卓戦争も末期の1976年頃、電卓には電池が必要でした。

小型化するために電池を使いたくなかったSHARPは、太陽電池の開発を始めます。

 

1977年SHARPが発売した電卓は、太陽電池を搭載し、65g、8500円と今とほとんど変わらないスペックになっていました。

 

こうして電卓戦争に終止符が打たれます。

 

松下電器、日立、ソニーなど数々の強者にかったSHARPが電卓の市場で生き残りました。

伝説の講演会

1977年ころ、佐々木の元に松下電器の人がやってきます。

社長の松下幸之助のヘッドハンティングを断った矢先だったので、嫌な予感がしていたそうです。

 

しかしその人は『佐々木さんに松下電器で講演会をして欲しい』と打診したのです。

 

これは松下幸之助が佐々木の引き抜きに失敗したのと、『なぜ天下の松下電器が電卓で負けたのか、佐々木さんに教えてもらえ』という命令だったそうです。

 

 

佐々木は技術畑の人間ですから、気持ちはOKだったのですが、早川電気にその話を持ち帰ると役員人は反対します。

『敵になぜ教えなければいけないのか』『ライバルが成長したらどうするんだ』といったように。。

 

 

しかし、社長の早川徳次の一言で事態は変わります。

 

少しばかり教えたくらいで負けるなら、SHARPなどその程度の会社です。
そんなことで負けるSHARPではない。
どうぞ佐々木さん、松下電器で話してきてください。

 

 

この時佐々木は、『教えを乞う松下と、教えてやれと言った早川』2人の創業者の懐の大きさを感じたのでした。

これが技術者の本来の姿であり、佐々木が目指す共創の世界だったのです。

 

スティーブ・ジョブズ、孫正義との出会い

1977年頃、LSI(半導体)の視察でアメリカバークレーを視察した時のこと、1人の小汚い若者が話しかけてきます。

いいスーツを着ている佐々木に対して、『俺を使って金儲けをしないか?』

 

それは22歳のスティーブ・ジョブズでした。

 

 

当時LSIの存在を知る若者はほとんどいなかったのに、その小汚いジョブズはLSIの話をすると目を輝かせ、見せてくれと懇願します。

 

直感的に、『こいつは将来有望かもしれない』と感じ連絡先を教えます。

 

 

時を同じくして、カリフォルニア大学バークレー校を訪れます。

 

 

ここは最近産声を上げた、コンピュータークラブがあり視察したいと考えていました。

佐々木は電卓の次を探していたのです。

 

 

コンピュータクラブにはアスキー創業者西和彦とソフトバンク創業者の孫正義がいました。

西は元々彼の父親を知っていて昔からの顔馴染みでした。

 

 

そこで西は『最近変わった日本人が入ってきたんです』と言って紹介されたのが、孫正義でした。

 

 

孫に会うと最新のLSIの話を熱弁され、佐々木は『バークレー校には面白いやつがたくさんおるな』と感心します。

そしてアメリカを経ち日本に戻るのでした。>>孫正義について

孫正義への融資

1979年、孫正義は自動翻訳機を作成し日本に売り込みにきます。

まずは松下電器産業に売り込みに行きます

 

 

松下電器では取り合ってもらえなかったが、バークレーで一緒だった西が松下電器におり『SHARPの佐々木さんを尋ねてください』と耳打ちで教えてくれたのであった。

 

 

孫はその後三洋電機にも赴くが、ここでも門前払いされ、最後にSHARPを尋ねます。

SHARPの担当者に自動翻訳機を説明した後、ようやく佐々木に会うことができました。

 

 

佐々木に面会した孫は自動翻訳機について熱弁します。

 

佐々木は『面白い、こいつはいい目をしている』とジョブズに感じた似たような感覚になり、昔の記憶が蘇ります。

 

 

『思い出したぞ、数年前バークレーで西に紹介してもらった少年ではないか。本当に自動翻訳機を作り上げたのか』と感心し、その場で1億2000万円で翻訳機を買い取ります。

 

 

後に佐々木は、このお金は孫正義への投資だと語っています。

 

 

1981年孫正義は、日本ソフトバンクを創業するのですがその時も佐々木のおかげで成功しています。

佐々木は孫を息子のように可愛がり、いく先々で孫の話をしていました。

 

その話を聞いた上新電機が、ソフトバンクに取引を持ちかけ、そこから飛躍的にソフトバンクは伸びていくのでした。

 

ジョブズへの提言

1985年Appleを追放されたジョブズが佐々木の元へ相談にやってきます。

 

ジョブズはマッキントッシュをヒットさせますが、その次を探していました。

 

ジョブズ
あんたは電卓を作った、俺はPCを作った、俺はその次を探している

 

 

佐々木は『君の中に既に答えはあるんじゃないか?』と聞くと、ジョブズは音楽と答えました。

 

 

するとフットワークの軽い佐々木は、その場でSONYの大賀に電話しジョブズを紹介します。

当時のSONYはウォークマンをヒットさせていて、この出来事が後のiPadを生んだと言われています。

 

 

この時佐々木は共創の大切さもジョブズに教えます。

 

佐々木はリンゴマンゴーの話をジョブズに伝え『君は独創的な人だが、1人では世界は変えられない。寒い国のマンゴーのようだよジョブズ、共創を考えなさい

 

 

ジョブズ
誰と組めと言うんだ?

 

 

佐々木は『ビルゲイツだよ』と伝えると、ジョブズは鼻で笑います。

 

あいつはダメだと文句を散々言うと、それが終わるの待って佐々木は『確かにゲイツは不完全だ、でも君も完全ではないだろう?だから共創するんだよ

 

当時マイクロソフトのビルゲイツと仲の悪かったジョブズですが、共創を諭され後に、マイクロソフトに出資してもらい、ゲイツと共同で開発を行うようになります。

晩年

1986年SHARPの副社長を退任します。

社長就任を持ちかけられますが、70歳を超えていたことから顧問となります。

1989年にはSHARPから完全に身を引きます。

 

 

その後はソフトバンクの顧問を勤め、『俺は孫を残したからいつ死んでもいい』と書籍の中で語っています。

 

佐々木正という1人の人間が多くの人に影響を与え、今のデジタル時代を席巻したと言っても過言ではありません。

 

2018年102歳で亡くなり、その後、孫正義さん主催でお別れの会が開かれています。

 

孫正義
佐々木先生がいなければ今の私も、ソフトバンクも無かった

 

と涙ながらに語っていました。

 

 

技術だけでなく人も残した佐々木の一生に感銘を受け筆を取りました。

 

以上です。

 

※参考文献 生きる力活かす力 人がやらない、人がやれない 電子立国・日本の突破口 ロケットササキ

 

【佐々木正が亡くなる前に書かれた本。佐々木最後の作品です。】
【佐々木正の生い立ちから成功までの全てが詳しく書かれてあります。】

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