

竜馬がゆくは1968年にNHKの大河ドラマになったり、最近では『龍馬伝』としてリメイクされたり、今なお人気の衰えない名作です。
坂本龍馬は、薩長同盟・船中八策(後に五箇条の御誓文の見本となる)・亀山社中(海援隊)の結成・大政奉還の立役者など、不可能と言われていた数々の偉業を成し遂げています。
実はこの他にも、北辰一刀流の一流の剣術家の一面を持ったり、自由や平等・身分制度の否定など、江戸時代では考えられない思想の持ち主でもあります。
この時代の人には珍しく、矛盾の多い既成概念に疑問を抱き、常識に捉われない柔軟な発想を持ち合わせていました。
これは現代社会で働く人にも通じる大切な考え方だと思っています。
どんなビジネス書や自己啓発系の本を読むより、勇気を与えてくれる名著です。
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『竜馬がゆく』の簡単なあらすじ
坂本龍馬は1835年高知県土佐藩の郷士の家に生まれます。

郷士とは武士の階級のようなもので、上士が武士の階級で上、郷士がその下の階級に当たります。
家は貧しい訳では無いものの、郷士という階級では上士に「斬り捨て御免」と言われて斬られても何も言えない身分なのでした。
母親が早逝し、姉の乙女に育てられます。
実はこの姉乙女は五尺八寸176㎝を超える大女で、更に江戸時代の女性にしてはかなり現代的な考えの持ち主で、龍馬のお墓がある京都霊山護国神社にはこのような手記が残っています。

この時代の女性にしては素晴らしい考え方の持ち主で、寝小便をたれ弱虫でいじめにあっていた龍馬を強くたくましく育てます。
姉の乙女に剣術も教えてもらい成長していきます。
江戸へ剣術修行に出る、黒船の来航に遭遇する
日根野弁治の道場で剣術を習っていた龍馬は1853年、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけます。
そして江戸にある北辰一刀流の千葉道場に入門します。
同年、龍馬は黒船の来航で海岸の警備に召集されます。
当時の龍馬は『戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します』と故郷に手紙を書いており、完全に尊王攘夷(主君を尊び外敵を打ち払う)思想の持ち主でした。
今までの考え方を一変させる河田小龍との出会い
河田小龍を語る前に、ジョン万次郎について書かなければなりません。
ジョン万次郎は土佐藩出身の貧しい漁師でした。
14歳の頃漁船が遭難し、アメリカの船に助けられ、そのまま10年間アメリカで暮らします。
アメリカやヨーロッパでは既に技術が進歩し、経済発展もしていました。
蒸気船を使った植民地支配、民主主義の考え方も普及しつつあり、200年近く鎖国をしていた日本とは大きな差が開いていました。(当時外国では蒸気船、鉄道、ガス灯、ライフル銃がありましたが、日本は帆船、馬籠、ロウソク、火縄銃でした。それ程までに鎖国は日本の国力を衰退させていました。)
24歳で万次郎が帰国したときに、日本で取り調べを行ったのが河田小龍でした。
そのため河田小龍はアメリカ事情に精通しており、龍馬にその事を伝えます。
龍馬は河田小龍との出会いにより、今までの考え方を一変させるのでした。

龍馬の理解力と素直さは現代社会に生きる私たちも見習うべきだと痛感させられました。
土佐藩からの脱藩
1860年江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されます。
井伊直弼は安政の大獄と呼ばれる、政治的な弾圧で尊王攘夷派の人間を虐殺します。
その中に松下村塾で有名な吉田松陰も含まれていました。(高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らを輩出)
井伊直弼は安政の大獄の他にも不平等条約の締結を独断で行いました。その結果、尊王攘夷派の反発を受け暗殺されてしまいます。
その頃の龍馬は、土佐藩を脱藩します。
脱藩は非常に重たい罪で場合によっては死罪、残された家族にも罪が及ぶ可能性がありました。
龍馬にとって土佐藩という小さな鳥籠の中では、天下に通ずる『事を為す』には小さすぎたのです。
1862年、坂本龍馬28歳の時でした。
勝海舟との出会い
28歳の坂本龍馬は、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛らと親交を深めます。
福井藩主、松平春嶽に拝謁し、幕臣勝海舟を紹介されます。(一介の浪士が藩主に拝謁する事など考えられない時代でしたが、それ程龍馬の名が天下に知れ渡るようになっていました。)
江戸へ上京した時に勝海舟に会い、世界情勢と海軍の必要性を説かれ感動し弟子入りを志願します。(一説には、勝海舟が取るに足らない人物だったら斬る覚悟で拝謁したそうです。)
勝海舟は、江戸幕府の幕臣(高い身分)でありながら、『江戸幕府はもう長くない、開国し海軍と貿易をしなければ日本が危ない』という考えの持ち主でした。
このような考えが江戸幕府に知れれば、勝海舟はもちろん罪に問われます。
しかし、勝海舟も龍馬と同じく、身分や常識などに捉われず、物事の本質をみる力に長けていました。
龍馬は後の手紙に、

このように残しています。
神戸海軍操練所の設立と世の中の混乱
1864年神戸海軍操練所と呼ばれる施設が作られます。
これは、勝海舟が江戸幕府の許可を取り設立した航海の技術や国際法の勉強をする学校です。
坂本龍馬は30歳になり勝海舟の右腕として設立からその後の運営まで尽力します。
しかし翌年、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃い為すぐに閉鎖されることになります。(幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた海舟の元には倒幕思想の武士も多くいた。)
すぐに閉鎖されたものの、土佐藩、長州藩、薩摩藩の浪士は航海術や国際法を学び、後の亀山社中の結成や倒幕での争いで多いに活躍することになります。
この時の龍馬の功績としては下記のようなことが挙げられます。
時を同じくして、1864年京都では禁門の変(蛤御門の変)を始めとする大混乱が起きます。
尊王攘夷論(天皇が政権を握り外国を打ち払いたい)、開国論、佐幕論(幕府を助けたい)色々な考え方がぶつかり合います。
新撰組もこの時に活躍し、京都では毎日斬り合いが勃発します。
かの有名な池田屋事件もこの時です。
池田屋事件は尊王攘夷の志士達が、近藤勇率いる新撰組に襲われる歴史上最も有名な事件の一つです。
血で血を洗う改革を嫌う龍馬はこの時にこう記しています。

龍馬は北辰一刀流の名手でありながらも斬り合いが嫌いで、最後まで血を流さない改革を目指すのです。
結婚、亀山社中(後の海援隊)の設立、薩長同盟へ
1864年坂本龍馬はお竜と結婚します。
お竜は動乱の世の中、寺田屋(京都の宿)の養子となり働いていました。
1865年神戸海軍操練所の解散で行き場を失った龍馬は長崎で、薩摩藩や長崎の商人の力を借りて亀山社中を設立します。
薩摩藩は、龍馬の海軍操練所で培った航海術に目をつけます。
亀山社中は日本初の株式会社とも言われており、(小栗上野介の「兵庫商社」説、渋沢栄一の「第一国立銀行」説があります。)出資者にお金を出してもらい、利益が出たら還元するという現在の株式会社と同じ方法で運用されていました。
この時の龍馬は、

仲の悪い薩摩と長州の手を繋いで倒幕するしか日本を救えない、そのための亀山社中だ。
日本という狭い世界で物事を考えていたら、世界の列強に植民地にされてしまう。(現にお隣の清ではアヘン戦争でイギリスに敗北している。)日本で力を持った薩長の手を結ぶしか日本を救う方法は無いと強く思うようになります。
しかし、薩摩と長州は蛤御門の変など多くの場面で衝突しており、非常に仲の悪い状態でした。
バチバチの状態なのに、同盟を結ぶことなど誰もが不可能と思っていました。
この犬猿の仲の薩摩と長州の溝を、龍馬は亀山社中を使って埋めていきます。
利害関係を全て一致させ、薩摩と長州の仲を取り持つ作戦に打って出るのです。

薩摩は外国と蜜貿易をしていましたので、龍馬は亀山社中を使って外国製の最新の武器を長州藩に送ります。
長州藩からは不作で悩んでいた薩摩藩に米を送ります。(薩摩藩は受け取らず、最初は上手く事が運ばないこともありました。)
同盟締結に苦労しますが、最終的に龍馬は薩長同盟を締結させることに成功し幕府を倒す勢力を確保します。
誰もが不可能と言われていたことを成し遂げたのでした。
坂本龍馬はただ無益な同盟を結ぶことで解決しようとせず、利害関係を一致させて同盟を結びます。
現在で言うところのWin-Winの関係を作り上げその同盟をより強固なものにしました。
寺田屋事件と新婚旅行
坂本龍馬はこの頃天下の浪人と呼ばれ、多くの人に知られる存在となっていました。
しかし、名が売れると命を狙われる危険も多くなります。
寺田屋に宿泊中、坂本龍馬は伏見奉行所に踏み込まれ、両手に深傷を負います。
薩摩藩の救助と妻お竜の機転もあり事なきを得ます。
その後西郷隆盛の勧めもあり、薩摩藩の霧島山に傷の療養も兼ねた旅行に出かけます。
これが世に言われる、日本人初めての新婚旅行と言われています。

1866年、龍馬32歳の時でした。
大政奉還と船中八策
1866年7月、幕長戦争が勃発し坂本龍馬もこの戦いに参戦します。
近代的な兵器を貿易によって得た長州藩が勝利を収め、幕府の力の衰えが露呈する戦いとなりました。
この頃の亀山社中は海援隊と名を変え、貿易業務を行っていました。
坂本龍馬は倒幕にむけて動いていますが、相変わらず血で血を洗うことを嫌っていたので、争いをせずに幕府を終わらせる方法を考えていました。
一方で、薩摩西郷隆盛や、長州の桂小五郎は、武力によって幕府を終わらせなければならないと考えており両者を納得させ尚且つ、幕府を終わらせる方法について悩みます。


坂本龍馬もこの2人の気持ちは痛いほどよく分かるのですが、ある奇策を思いつきます。
それが大政奉還です。
250年以上続いた将軍統治による江戸幕府を廃止し、朝廷に政権を奉還するという案です。
江戸幕府は250年ですが、将軍統治は平安時代末期の平清盛以降600年以上続いていたもので、そんなことを考える人物は当時の日本には龍馬以外いなかったことでしょう。
600年以上、常識とされていた事を覆すのは並大抵のことではありません。
1867年33歳の龍馬は大政奉還の考えを踏まえた、船中八策という新国家体制の基本方針を作ります。
殆ど近代日本の柱となる考え方ばかりです。
これが後の五箇条の御誓文となり、明治維新の基本的な考え方の軸となるのです。
一介の土佐藩の浪士がここまでの考えを持て、更に実行できたのは日本史始まって以来の偉業とも言えます。
1867年10月、徳川慶喜により、政権が朝廷に返還され大政奉還が実ります。
龍馬はこの時33歳、こんな言葉を残しています。
大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給えるものかな。予、誓ってその公のために一命を捨てん。
竜馬がゆく(八)草雲雀の章より
近江屋事件、坂本龍馬暗殺
大政奉還の翌月、1867年11月坂本龍馬は京都の近江屋に宿泊していました。
大政奉還を実らせ、事実上の倒幕を成功させた直後のことです。
大政奉還を成したことにより、新撰組や京都見廻組など幕府勢力から命を狙われる身となっていました。
11月15日、中岡慎太郎と近江屋2階で話をしていた時に何者かに襲われます。
帯刀しておらず、応戦する間も無く額を斬られて坂本龍馬は暗殺されます。
一緒にいた中岡慎太郎も二日後に亡くなってしまいます。
暗殺については幕府説、薩摩説、長州説、紀州説など色々ありますが、京都見廻組(幕府側)が定説になっています。
常に龍馬は、

その時が来るまで志を高く、事を成す為に生きよ。
こう言っています。
『竜馬がゆく』で学べること
『竜馬がゆく』は1962年〜1966年に産経新聞に連載された長編小説で、その後文庫本化された司馬遼太郎の代表作です。
史実に基づいて書かれてはいるものの、史実と異なる描写もあるのでフィクションとしての位置付けになっています。
これまで述べてきた通り、坂本龍馬という人物の生き様を正確に丁寧に記載しています。
著者の司馬遼太郎の取材力には感服するものがあります。
常識や既成概念に捉われない発想を持っていて、それでいて素直で人懐っこい性格があったからこそ、大事を為せたのだと思いました。
志を持って有言実行する様は、多くの起業家に愛される由縁だと思います。
ソフトバンクの孫社長は龍馬が大好きで、会社のロゴは海援隊の3本線ですよね。
それほどに影響を受けているみたいです。
『竜馬がゆく』では、
こんなことが学べます。
龍馬没後180年以上経過しています。

おうち時間も増えた昨今、色あせない彼の功績に勇気をもらうのも良いですよ。
是非、読んでみてくださいね。
それでは、See you next time!!