"志高く"この言葉無しには孫さんのことは語れません。
どんな状況でも志高く、自分の信念を貫く生き方に影響を受けたビジネスパーソンは多いのではないでしょうか?
私もその1人です。
とある番組では夢を持つことの重要性も語っており、
自分の持った夢に、自分の人生は概ね比例する。
夢が叶う人、叶わない人の唯一の違いは、夢を心の底から達成したいと決意し、達成に向かって恐ろしいまでの情熱で努力したかどうかだ。
多くの人に刺さるメッセージを残しています。
また、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響を受けていて、仕事で大きな壁にブチ当ったら竜馬がゆくを読んでモチベーションを上げるそうです。
『世に生を得るは事を成すにあり』という坂本龍馬の言葉に感銘を受け、自分の人生で何を成すべきか必死に考え、志高く生きていく人生にはただただ脱帽です。
孫さんを語るなんて烏滸がましいですが、一代で日本トップの会社を築き上げた孫さんの魅力を書いてみようと思います。
途中、孫さんを語る上で外すことのできない、多くの偉人(藤田田、佐々木正、スティーブ・ジョブズetc...)が登場し脱線しますが最後までお付き合いください。
孫さんのクレイジーな生き方に必ず勇気を貰うことができます。
タップできる目次
幼少期
孫正義さんは1957年佐賀県の鳥栖市に生まれ、貧しい集落で幼少期を過ごします。
戸籍上の住所が無番地で、線路脇のトタン屋根のボロボロの小屋だったそうです。
孫さんの祖母が韓国人で14歳の時に日本に移り住み大変な苦労をして育ちました。
生活が苦しく、孫さんの父は密造酒を作ったり、養豚業などでなんとか生計を立てていました。
日本に暮らしていた幼い頃は、『安元正義』と名乗っており、『孫』の苗字を使っていなかったそうです。
今から50年以上前の日本では差別や偏見がありましたが、孫さんはそのことをあまり語っていません。
その後父が事業で成功し暮らしが楽になると、孫さんは中学・高校に進学します。
成績優秀で家庭教師もつけ、その先生に1冊の本を勧められ人生が一変します。
15歳で出会った本が、『竜馬がゆく』でした。【参考】竜馬がゆく簡単なあらすじ
高い志を持ち常に前進する龍馬の姿に感銘を受け、漠然と『何事かを成したい』と強く思うようになります。
そして短期の語学留学を経て、本格的にもう一度アメリカへ行くことを決意します。
高校を中退し渡米の決意
アメリカで本格的に学ぶ決意をした頃、家族間で問題が起きていました。
父が病気で吐血し入院、兄が家庭を支えるために高校を中退し働き始めていました。
そんな矢先に渡米の話をしたので家族や親戚には、『父が病気なんだぞ、見捨てるのか』『アメリカに行ったら帰ってこれないかもしれないぞ』など猛反対されます。
また、高校を中退してアメリカへ行くので学校からも反対されます。
『せめて卒業してからでいいじゃないか』『大学で留学すればいいじゃないか』それでも孫さんの決意が揺らぐことはありませんでした。
その時のことを孫さんは自分の言葉で語っています。
僕は弱い人間だ。
戻れる場所があったら、挫けて戻ってきてしまうかもしれない。
だから退路を断つ、退学をする。
そして安本の名ではなく、大好きな婆ちゃんの苗字『孫』で必ず成功する。
大人がリスクヘッジを進める中、高校生の孫さんは退路を断ち腹をくくるのでした。
並の高校生ではありません。
竜馬がゆくに影響を受け事業家になることを決めた孫さんは、一時的に家族を支えるのではなく中長期的に家族を支えるため、アメリカへと留学を決意します。
そこで事業家になるためのタネを見つけると宣言をするのです。
この自らの渡米と坂本龍馬の脱藩が重なり大粒の涙が流れたそうです。
絶対に家族を支えて見せる、立派な事業家になって見せて、孫正義の名前で証明して見せると心に誓ったのでした。
藤田田との出会い
渡米を決意したころ、また1冊の本に出会います。
それが、藤田田の書いた『ユダヤの商法』です。
この本は藤田田さんが書いた本で、1972年に刊行されその後重版がなく、中古市場で数万円で取引された名著です。
2019年に復刻版がリリースされベストセラーになっています。
この本に出会った孫さんは、この人に今後何を学べばいいか教えて欲しいと強く思い、即行動に移します。
しかし、当時すでに超有名経営者であった藤田田の担当秘書に何度も何度も断られ最終手段にでます。
という内容を秘書に託します。
さらに本当にメモをしたかどうか『今私が言ったメッセージを復唱してください』と念押しまでしたそうです。
高校一年生にして大人を負かすクレイジーガイです。
とうとう根負けした藤田側が孫少年と会うことになります。
そして藤田田から、コンピューターを学びなさいと教えられ渡米します。
これが今後の孫さんの方向性を決めることになります。(マクドナルドというアメリカの事業をやっていた藤田田にアドバイスを求めるとこもセンスありますよね)
後に、藤田田は『勝てば官軍』という本の中で
九州から16歳の少年がわたしに会いたいと上京してきた。わたしは、忙しくて時間がないと断ったのだが、彼は一週間、毎日会社を訪ねてきた。その熱意にほだされてわたしは彼に会った。
彼は、「わたしは九州鳥栖の出身で、これからアメリカに行って勉強したいのですが、なにを勉強したらいいでしょうか。自動車とか飛行機とか石油とか、学びたいことはいろいろあるのですが」といった。
わたしは「今はこの部屋くらい大きなコンピュータを使っているが、遠からずハンディなものになるだろう。アメリカに行って勉強するならコンピュータしかない。コンピュータだけ勉強してらっしゃい」とアドバイスした。
「わかりました」といって少年は、アメリカでコンピュータを勉強して帰国、日本ソフトバンクという会社を創った。ソフトバンクは94年に上場して50円の株が一挙に1万9000~2万円になるほど急成長した。少年の名は孫正義――といえば、「ああ、あのひとか」と思い当たることだろう。
この話には後日談があり、孫さんが会社を上場させた後、藤田さんを食事に誘います。
そこで初めて、『あの時の押しかけた少年は私です』と告白します。
藤田はこの時はじめて、あの九州のしつこい少年が孫正義だと気付きます。
自分の教えを忠実に守ったこと、そして成長した姿に感動した藤田田は、孫の会社にパソコンを300台発注しました。
アメリカ学生時代
1974年渡米した孫は、セラモンテハイスクールに入学します。
そこでも驚異的なクレイジーを見せつけます。
高校1年生の勉強を1週間で終わらせて、高校2年生を3日、高校3年生を3日で終わらせます。
その後高校認定試験に合格したため、3週間程で高校を退学するのです。
翌1975年、16歳でホーリーネームズカレッジに進学します。(飛び級で大学に進学)
寝る以外勉強生活
日本に家族を残し、自分にできることは勉強だけだと言い聞かせ、寝る時間以外は全て勉強の時間に捧げたそうです。
授業では真っ先に真ん中に座り、最後まで真剣に授業を受けました。
トイレに行くときも参考書、道を歩く時も教科書、運転する時もイヤホンで勉強、食事をするときも左手に教科書、右手にフォークを持って勉強に明け暮れました。
孫さんは当時を振り返って、
と話しています。
両目で食事をみて食べることが幸せと感じるくらいの勉強ってどれほどなのでしょうか…
常人には理解が及ばない領域ですね(笑)
また肺炎になっても気付かないくらい勉強をし、『僕より勉強をしているやつはいない』と公言しています。
まさに、クレイジーです。
マイクロコンピューターとの出会い
1976年17歳の時に、雑誌に掲載されていたマイクロコンピューターの写真を目にします。
指先に乗るくらいのマイクロチップをみて、感動し全身が痺れ大粒の涙を流します。
普通の人は涙は出ません(笑)
どういうことかと言うと、『人類はなんて凄いことをしたんだ、人類史上最大の発明になる』と直感したそうです。
その時の様子を何度もメディアで発信しています。余程の衝撃だったのでしょう。
そして、普通の17歳の男の子は下敷きにアイドルの写真や好きな女優さんの写真を貼るのに、孫さんはマイクロチップのその雑誌の切り抜きを貼り、肌身離さず持っていたそうです。
寝る時も枕元に、勉強の時も下敷きとして、マイクロチップの写真を…
バークレー編入
1977年18歳の時に、ホーリーネームズカレッジからカリフォルニア大学バークレー校に編入します。
世界屈指の大学で名門中の名門です。
その時も伝説があります。
入試が大学レベルの難しい英語ばかりで読めなかったそうです。
しかし、単語さえ分かれば全部解ける自信があったので試験官に直談判します。
『この試験は日本語だったら、全部解ける。だから辞書の持ち込みと、時間の延長をしてくれないか?』と。
そしてこの問題は州知事がOKを出し、無事にバークレーに編入することになりました。
後にも先にもこのようなお願いをしたのは孫さんだけです。クレイジーです。
1日5分で年間1,000万円稼ぎたい
寝る以外は勉強に明け暮れていた孫さんですが、この時から勉強以外のことに時間を割くようになります。
大学の同級生に、『1日5分で、年間1,000万円稼ぎたいんだけどどうすればできるかな?』
とクレイジーな質問をして回ります。
全員が笑いながら一蹴しますが、孫さんは至って大真面目です。
そして、『5分間の贅沢な時間を使って発明をする、発明で一山当てよう』と決意します。
実際に250程の発明をしました。
自分が発明したモノを実際に作ることができるスキルを持った、友達や教授を雇うことになります。
そこでもクレイジーっぷりが発揮され、『みんなを雇うけど今はお金がない、発明が売れたら皆さんにお金を払います。売れなかったらタダ働きになるけど、売れた場合は皆さんが申告した通りのお金を払います。』
このような条件でプロジェクトを始動させました。
孫さんには人を巻き込む力と、人がついてくる魅力があったのです。
そうでなければ、多忙な大学教授を雇うことなんてできません。(お金もないのに)
そして1979年に発明した世界初の自動翻訳機を日本のSHARPに売却します。
額は1億8000万円。
この時にこの翻訳機を購入したのが、SHARPの佐々木正です。
孫さんは、その資金を元にUnison World(ユニソンワールド)という会社を設立します。
この会社では日本で価値の下がった、インベーダーゲームをアメリカで売り捌いていました。
結局、発明で1億8000万円、ゲームの方で1億5000万円、合計3億3000万円を稼ぎます。
最初に立てた『1日5分で年間1,000万円』目標を大きく達成しクレイジーっぷりを大いに発揮します。
人生50ヵ年計画
この頃有名な人生50ヵ年計画を立てています。
20代 名乗りを上げる
30代 軍資金を貯める
40代 ひと勝負かける
50代 事業を完成させる
60代 次の世代に事業を継承する
孫さんは学生の時に立てたこの計画を一度も曲げることなく、今なお生活をされています。
驚異的です。
そして大学卒業を迎えるのですが、ハーバード、スタンフォード、MIT、バークレーなどから、月謝無しで多数のオファーをもらうのですが、家族との約束を果たすため帰国します。(大学を卒業したら帰国して事業家になり家族を守る)
1980年のことでした。
日本に帰国:日本ソフトバンクを起業
1981年9月、日本ソフトバンクを設立します。
起業する時にはどのような仕事をするべきか、1年半悩んだそうです。
一生をかけるのに相応しい仕事、100万・1000万の人の役に立つ仕事、1番になれる仕事、自分が好奇心を持ち続けることができる仕事、儲かる仕事、実際に40程の事業を考えたそうです。
そして考えに考え抜いた結果が、【デジタル情報革命で、知恵と知識の共有を促進し、人類に貢献する】でした。
そしてその事を成すために、ソフトウェアの卸売りの会社日本ソフトバンクを起業しました。
福岡の雑居ビルの2階、資本金1,000万円、従業員はアルバイト2名。
初日の朝礼で、みかん箱の上でブチかまします。
マイクロコンピューターを使ってデジタル情報革命だ!
30年後の我が社は、豆腐屋さんのように1兆(丁)、2兆(丁)と売り上げを数えるようになる。
気が狂ってると言葉を残し、1週間でアルバイト2人とも辞めました。(実話でLIVE2011で実際に語っておられます)
創業1ヶ月目の大勝負
創業1ヶ月目、孫さんは大勝負にでます。
名乗りを上げるために、エレクトロニクスショーに出店することを決意します。
企業が自社の商品をPRするためにブースを設け、たくさんの人にみてもらう場です。
そのエレクトロニクスショーに、出店費用に800万円、パンフレット制作に200万円、有り金を全て使ってしまいます。
本当にクレイジーです。
出店直後はなんの音沙汰もなかったのですが、1週間後1本の電話から快進撃が始まります。
上新電機からの電話で、是非とも契約したいとのこと。
そこからは一気に鰻登りで、1年ちょっとで30億円の年商になり従業員も200名近くになり倍々ゲームで成長していきます。
大病の経験
会社を起こして1年半、売り上げも右肩上がりで順調、プライベートでは娘も生まれ、これからガンガン仕事をやろうと思った矢先、肝臓を患い緊急入院をします。
医者から持ってあと5年だと言われ、病室でボロボロ涙を流します。
その時も『竜馬がゆく』を読み返したそうです。
その時に
と悟るように思ったそうです。
3年半病院を出たり入ったりし、創業当時の仲間も去り、お客さんも去り、難しい事だらけになって困難にぶち当たります。
強豪の出現、広告掲載拒否、どん底を味わうも、そこからも這い上がるのが孫さんです。
元々エネルギーレベルの高い人が、大病を経験し克服したら手のつけられない程のエネルギッシュな人になります。
エネルギーの塊みたいな人だと思います。
株式公開、アメリカ進出
1994年株式を店頭公開します。(事実上の上場)
その後、2700億の時価総額の時にアメリカの展示会コムデックスで800億円で買収、ジフデービス2300億円で買収など、ソフトバンクと言えば買収といったイメージが定着しつつありました。
Yahoo!Japanの設立
1996年従業員が数名程度の、Yahooに100億円投資し、その後Yahoo! JAPANを設立します。
これが今後のソフトバンクの中核事業として活躍します。
ソフトバンクはソフトウェア事業から、インターネット事業への実質的な転換期でした。
この頃の孫さんは、1日に資産が1兆円ずつ増えていき、ビルゲイツを抜き世界一の資産家になった時期です。
当時を振り返り、『お金は欲しく無くなるし、買い物の喜びは無くなったし、銀座に行ってもビルごと買える、それでもお釣りがくる』と相変わらずのクリジーっぷりでした。
ネットバブルの崩壊
2001年ネットバブルが崩壊し、ソフトバンクの時価総額は1/100程になります。
この頃から孫さんは日本のインターネットが世界の先進国で1番遅く、1番高いことに疑念を抱くようになります。
NTTの社長に直接直談判し、日本のインターネットの速度を上げてくれと何度かお願いをしたそうです。
しかしNTTの社長は、速度の遅いISDNをやると一点張りで、結局自分でやろうと立ち上がるのでした。
ブロードバンド事業に参入
ネットバブルが崩壊して非常に財政状況の厳しい中、2001年本格的にブロードバンド事業に参入します。(ブロードバンドは高速で大容量の送受信ができる通信網、分からない方は光回線と思ってもらってOKです)
世界一高く、世界一遅い日本のインターネットをぶっ壊すためです。
事実上NTTへの宣戦布告になります。
YahooBBとしてリリースしたサービスは、当時のNTTの1/5の値段、NTTの4倍の速度でユーザーに届けることができ、3日で申し込みが100万件を突破しました。
しかし当時YahooBBはNTTのメタル回線を使わなければなりませんでした。
そこで大きな問題が起きます。
技術的には可能なのに、NTTが手続きを複雑にしソフトバンクの申請を受理しなかったのです。
NTTは税金で構築した巨大インフラにより利益を受けています。
その牙城が崩されるのを恐れたのです。
日本企業の本当に悪いところで、既得権を守るために跳ね除けたのです。
しかし、孫さんも黙ってはいませんでした。
NTTに殴り込み、そこから総務省にも殴り込みにいきました。
インターネットユーザー全てのために早く・安くする、その志の炎はメラメラと燃えていました。
総務省では、机をバンバン叩いて役所の人を説得します。
NTTが全く取り合ってくれないし、独禁法に抵触する内容だ。
何も金をくれとかそんなことは言っていない。
ただフェアにしてくれ、そうNTTの社長に電話一本入れてくれ。
でなきゃ、100万人のお客様に申し訳がたたん。
もし、そうしてくれないなら会見を開いて灯油を被って火を付ける。
そして総務省からNTTに申請を許諾するように促しがあり、手続きが流れ出したそうなのです。
この時の担当者は、接待問題で話題の山田真貴子さんと言われています。
社内の反対
ブロードバンド参入の時に、社内からかなりの批判を受けます。
ネット回線を早く・安くすることは、他のIT企業にとっても嬉しいことでした。
社内の役員からは、『ソフトバンクユーザーだけの値段にしましょう』『ライバル企業には使わせないようにしましょう』など反対意見も多かったようです。
しかし孫さんは、
とまたもクレイジーっぷりを発揮します。
日本をブロードバンド先進国にするという志を持ってひたすら前進するのでした。
『名もいらん、金もいらん、地位も名誉もいらん、命もいらない、そんな厄介な男ではないと大事はなせない!引きちぎれるほどの情熱がないと革命なんてできやしない』
そう言ってこのブロードバンド事業で4年連続1000億円の赤字、トータル4000億円以上の赤字を出すのでした。
普通の会社なら撤退していますが、彼はクレイジーなので赤字を出し続けます。
この辺は常軌を逸しています(笑)
ようやく黒字が出始めた頃には、NTTを始めとするライバル企業も頑張り、日本のインターネット速度は世界でもトップクラスのものになっていました。
これがブロードバンド革命と言われています。
携帯電話業界への進出
孫さんの快進撃は終わりません。
携帯事業に乗り出すまでに、
- 日本テレコム買収
- ダイエーホークス買収
- アリババと事業提携
さらっと大きいことをしています。
そして、常に先を見据えておりブロードバンド革命の後はモバイルインターネットの時代だと直感していました。
2006年、行動を起こします。スティーブ・ジョブズに会うのです。
孫さんは、『スティーブ、これを見てくれ!』孫さんが考案したiPod+電話機の手書きの図面でした。
『これはあんたにしか作れない、これを作ってくれ』とジョブズに言いました。
孫さんは諦めません『喋らなくていいから、完成したら日本での独占権は俺にくれ。俺をパートナーとして選んでくれ』
と言うとジョブズは家に招いてくれ、独占権の約束をしてくれました。
孫さんは一筆書いてくれとジョブズにお願いしますが断られます。
と言われ、2週間後ボーダフォンを買収してジョブズの元へやってきます。
まさに、クレイジーです。
このボーダフォンの買収も非常に話題になり、株主からかなりのバッシングを受けます。
当時のボーダフォンはエリアは狭い、機種は少ない、ユーザー離れが進み、市場からは全く期待されない携帯キャリアでした。
それを1兆8000億で買収するなんてどういうことだと非難を浴びます。
しかし、本当の買収の意味を知る人は世の中に2~3人しかいなかったと言われていて、その後の快進撃は言うまでもありません。
ボーダフォン買収後孫さんは、一言だけジョブズに
このやり取りで日本でのiPhoneの販売権はソフトバンクが掴み取ることになります。
ジョブズ没後、孫さんはこう語っています。
なぜiPhoneを扱えたのかと聞かれるが、金銭的な交渉は一回も行わなかったし、ジョブズはそういう次元の男じゃなかった。
当時のソフトバンクの競合、KDDIやNTTはソフトバンクよりもお金も顧客も持っていた。
条件面で勝負していたら負けていた。"情報革命の同志"としての部分が1番大きかったんだと思う。
実質的なPCの生みの親であり、iPod、iPhone、iPad、4回も人類のライフスタイルを変える、そんな人はいない。ジョブズは500年後、ダヴィンチと同じレベルで人々の歴史に名を残すだろう。
時を同じくして、ソフトバンクは会社のロゴや店舗の色を変えています。
シルバーと白を基調とした色にしました。
これはアップルカラーで、ジョブズへのリスペクトと言われています。
※ちなみに銀色の2本ラインは、尊敬する坂本龍馬が作った海援隊のマークと同じです。
投資会社への変貌
ここまで孫さんは5つの大きな勝負をしています。
①志を立て、渡米
②創業1ヶ月後の大勝負
③株式公開、アメリカ進出
④ブロードバンド事業に参入
⑤ボーダフォン日本法人買収
デジタル情報革命で、人類に貢献するという志を立て、本当に有言実行されています。
そして近年、ソフトバンクビジョンファンド(以下:SVF)と呼ばれる投資会社を設立しました。
投資と孫さんの理念になんの関係があるのか疑問を持ちましたが、SVFはAI領域に大量の資金を投資しAIを活用した情報革命を後押ししていました。
ソフトウェアの卸売り→インターネット事業→ブロードバンド通信→携帯電話→投資会社、と時代が変わっても理念(デジタル情報革命で、人類に貢献する)が変わらない孫さんには脱帽です。
2020年の決算発表が先日ありました。
20年4〜12月期の純利益が3兆円を超え、日本企業で過去最大を記録しました。
それでも孫さんは、
常に高い志しか見据えていません。
ここまで冷めない情熱を持って行動できる凄さ、何があっても諦めない姿勢、本当に尊敬です。
『世に生を得るは事を成すにあり』自分の人生何を成すべきなのか、生きる意味をもう一度考えるきっかけにして欲しいです。
それでは、See you next time!!
※この記事は孫さんの肉声をメインに作成しています。年数や表現に誤差がある場合がございます。